2009年7月12日 (日)
2009年7月10日 (金)
2009年7月 9日 (木)
ハンゲショウ(半夏生)
日の出前に目覚めると霧にすっぽりとおおわれています
先日植えた花たちはどうなっているだろうか 庭を一回りする
栗の木の下に植えた半夏生(別名片白草)の花が霧の中に浮かび上がりました
半夏生・二十四節気七十二候の一つ夏至から十一日目の日 農作業が一段落してその日は何もしないで過ごさねばならない日とされていたようです
・天地に毒気が満ち、毒草(半夏)が生える。
・天から毒気が降るため、井戸には蓋をしなければならない
・地が毒気を含むので、この日はタケノコ、ワラビ、野菜を食べてはならない
・この日には作物の種をまいてはならない
・この日は竹林に入ってはならない
などの禁忌が有ります。
名前からして妖怪が跋扈しそうですね この花も何となく怪しげドクダミの仲間です 多分葉の半分が白くなるので「半化粧」が語源で半夏生の頃咲くので「半夏生」に転化したのでしょう
上の禁忌に出てくる「半夏」(別名烏柄杓)という草があります サトイモ科のマムシグサのような花です これも怪しげな草ですが漢方薬だそうです 季節の半夏生について「半夏生づ」候だから半夏生というのだという説明がありますがこの場合は写真の半夏生ではなく漢方薬の「半夏」の方です ややこしくて調べるのに苦労しました
いずれにしても季節も植物も梅雨前線が暴れる季節の怪しげな雰囲気を持っています
一樹下にしののめの明かり半夏生 西坂三穗子
2009-7-5 信州・信濃追分
2009年7月 8日 (水)
2009年7月 7日 (火)
2009年7月 6日 (月)
2009年7月 5日 (日)
斜陽館(太宰治生家)
五所川原から今は五所川原と合併した旧金木町にある太宰治生家の斜陽館を訪ねた
ついにブルジュアであることから逃げられなかった作家の象徴的な豪邸である
太宰は金木町のことを「津軽」の中でこう書いている
・・ 金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これといふ特徴もないが、どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば、水のやうに淡泊であり、悪く言へば、底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。・・
また生家のことを「苦悩の年鑑」のなかでこう書いている
・・私の家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。ひとりの芸術家もいない。役人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのものであった。父は代議士にいちど、それから貴族院にも出たが、べつだん中央の政界に於いて活躍したという話も聞かない。この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間数(まかず)が三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳という部屋が多い。おそろしく頑丈(がんじょう)なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣きも無い。・・
この磨き上げられた居間兼食堂兼台所は太宰の書いたものの中に出てくる兄弟使用人たちが奥の棚に整然と置かれた沢山の箱膳でいろりの前で食事をし歩き回ったり酒を飲んだり そんな姿が今でも朧の中に見えるような雰囲気を持っていた
2009-6-29 青森県・斜陽館
2009年7月 4日 (土)
2009年7月 3日 (金)
圧倒された五所川原の「立佞武多」
弘前からバスで五所川原に向かう 「立佞武多」の館でまずはエレベーターで四階に行けという なんで四階?と思いながら降りてびっくり巨大なねぷた像が目の前に現れたのである
高さ22メートル、総重量16トン3台の立佞武多は30人の若者により曳かれ8月4日からの祭で市内を巡るとのこと
太宰治の「津軽」で五所川原のことをこう書いています
・・それ(太宰が生まれた金木町のこと)から三里ほど南下し、岩木川に沿うて五所川原といふ町が在る。この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるやうだ。青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。善く言へば、活気のある町であり、悪く言へば、さわがしい町である。農村の匂ひは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらゐの小さい町にも既に幽かに忍びいつてゐる模様である。大袈裟な譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつたやうなところでもあらうか。・・
太宰は津軽平野の短い夏に駆けるねぷたを曳く若者と浅草の御輿を担ぐ若者の姿が重なったのであろうか
一階に降りて仰ぎ見る3台のねぷたは壮観そのものでした
2009-6-29 青森県・五所川原市
2009年7月 2日 (木)
旧弘前図書館
明治39年に建築された旧弘前市図書館です。ルネッサンス様式のおしゃれな建物で中もよく保存されています 閲覧室も「婦人閲覧室」があり7歳にして・・・の世の中を表していました
弘前について太宰治はその小説「津軽」のなかでこう書いています
・・いつたいこの城下まちは、だらしないのだ。旧藩主の代々のお城がありながら、県庁を他の新興のまちに奪はれてゐる。日本全国、たいていの県庁所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持つて行かざるを得なかつたところに、青森県の不幸があつたとさへ私は思つてゐる。私は決して青森市を特にきらつてゐるわけではない。新興のまちの繁栄を見るのも、また爽快である。私は、ただ、この弘前市の負けてゐながら、のほほん顔でゐるのが歯がゆいのである。負けてゐるものに、加勢したいのは自然の人情である。・・
当時青森は小さな漁村だったようです。
青森県のホームページのなかの青森県史では廃藩置県のことをこう書いています。
・・ (明治4年)廃藩置県当初、わずか2ヶ月間、弘前県がありました。けれども、政府から派遣された初代知事の野田豁通は、9月23日に県庁を青森町(現青森市)に移してしまいます。北海道や下北半島まで広がる大きな青森県を治めるために、県の中心に位置し、海に面した青森町が選ばれたわけです。・・
未だ持って弘前市民にとって「不幸な」ことをした初代知事の野田豁通というのは私の祖父なのである 私は何となく肩身が狭いおもいで広大な弘前城を歩いてました
2009-6-28 青森県・弘前市












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